もういくつのころから日記を書いていたのか覚えていない。毎日日記を書く人間は稀らしい。わたしは、毎日何冊もの日記に書き込んでいる。多忙な日なのかと言えばそうでもない。
朝起きて書くことが日記というだけだ。毎日日記を書いていれば日々のことも大人になって似通ってくる。そうしたわけで、日記なのにエッセイのようにもなってしまう。
考えたこと、気付いたことを書いていくだけになる。家族すら登場しなくなる。家族まで登場させたら膨大なことになってしまう。さて、わたしが日記が好きなのは手書きであればWEBの波にさらされることもなくすらすらと書いて安心できるからだ。
旦那が日記は大切だと喜んでいたが増殖していく日記に、「少し、整理しようか」とぽつりとつぶやいた。
眠気の残る朝に、スリップから服に着替えて換気をする。花を咲かせていた白い椿の蜂はすべての花を落として夏の準備をしていた。月下美人はまだ二年目だ。花を咲かせる気はないだろう。珈琲を慎重にドリップしながら猫のきなこと触れ合う。
猫のきなこは、保護猫にして血統種である。なぜそんな高級な猫がこの侘しさ漂う我が家に来ることになったのかは不明である。譲渡してくれた方によると非常にあまえんぼうで、一緒に時間を過ごしてくれる人でないと寂しがってしまうとのことである。
サイベリアンというロシアの猫で愛らしい顔と、おしゃべりである。
一人でずっとしゃべっており上品で粗相もせず、お嬢様然としている。
あまえんぼうぶりは素晴らしく、わたしにしか懐かないのだが一日中べっとりしていないと不安みたいである。わたしが薔薇が浮かび上がるランプシェードのライトをつけると朝の準備だと喜び、飛び跳ねている。
椿は「椿夫人」と名前を付けていた。来年また花を咲かせてくれるだろう。
わたしといえば、幽鬱に囚われていてあまり楽しくない。
甘いものが少し食べたくなったが、一度甘いものばかり食べてしまい太ったので自重している。なぜ甘いものを狂ったように食べたのか。砂糖には依存性があり、辛党のわたしは安い箱菓子に手を出して食べてみたのだ。美味しくは感じないがイライラを緩和する気がした。しかし、それが習慣のようになったころおそろしい孤独感が襲うようになった。
孤独感の正体がわからず、無心で口にチョコレートのお菓子を運んでいた。
今は甘いものは断ち、孤独感は消え失せた。体は孤独感ではなく「砂糖」を欲しがっていたのかもしれない。ぞっとして暴飲暴食はやめることにした。